豊島区、千川駅近くのわかしま内科のブログです。

日記として。

6月11日の土曜日。私は滅多に血族以外の墓参をすることはないのだけど。

庭瀬先生は、研修医時代にお世話になった指導医のなかでは、異色のドクターであった。

その思い出をあれこれ、書こうか。。。そう思ってブログの記事を書き始めたのだけど、つぎつぎ異なるエピソードが頭に浮かんできて、まとまらない。命日であり、私が墓参した6月11日から、どんどん過ぎて行ってしまう。

まずは、一度、アップしておきます。

北鎌倉の東慶寺にある、お墓です。紫陽花ほか、花のさく東慶寺境内、お墓もたいへん落ち着いた、すばらしい場所にありました。

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となりのお墓は、赤瀬川原平さんという庭瀬先生と交遊のあった人のお墓。ネット上の情報では、生前の二人はいっしょに東慶寺のお墓を買ったらしい。

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庭瀬先生の思い出のあれこれは、この下に、後日、追加記載していければいいな、そう考えています。

 

故庭瀬康二医師の記憶

1)新宿歌舞伎町での出張診療

研修医時代の私たちを連れて行く庭瀬医師のお気に入りの店が、ゴールデン街にあった。「文庫屋」という。文庫屋という名のとおり、作家さんなどが常連であったと聞いている。庭瀬医師はその呑み屋に、そう大きくはない、クスリ箱を置いていて、客人の健康相談とそれに応じた処方をその場で行なっていた。聴診器をあてたり腹を触ったりはしていなかったと思う。診察の費用を請求しているのを私は見ていない。私たち研修医は酒を奢ってもらうために庭瀬医師についていっただけなのだけど、そこで各界の有名な人の隣りに座ってひと言二言、交わしたのが嬉しかった。今は船橋のほうで病院の院長をしているM君といっしょに連れて行ってもらったときは、隣りに安西水丸さんが座っていて、調子者のM君は、そこらにあったいい加減な紙に水丸さんオリジナルの似顔絵を描いてもらっていた。M君はそれを今どうしただろうか、彼に聞いてみたいものです。

2)寺山修司さんの主治医

私が初期研修をしていた阿佐ヶ谷の総合病院に庭瀬医師は非常勤で勤めていらっしゃった。消化器外科の仕事をしていて、私たち研修医に胃のバリウム検査の読み方を教えてくれていました。その庭瀬医師がある日連れてきた患者が寺山修司です。私が超音波検査を先輩のH医師に習っていたことのことです。庭瀬医師が言うのは「寺山は肝臓が悪い。H先生、エコーでみてやってくれ」との依頼。H医師について私もエコーの画面を覗き込みました。今の綺麗なエコーの画像じゃなくて黎明期のまだ、コンベックスのプローブもない時代の機械です。進行した肝臓病の所見がみられ、そしてまだ大きくはないですが、肝臓のなかに腫瘍があるようにみえました。H医師も私も、こりゃマズイな、と思ったわけです。

庭瀬医師は、寺山修司のような著明な人、また医療というものに斜に構える人、をたくさん患者に持っておられた。そしてそれらの患者さんと対峙して伝えていたものがあったように思います。ネット上で伝えるのは難しいことなのですが。。。。 庭瀬医師を知る人は、みんなそれが解っていて、庭瀬医師の周りに(患者として)集まってきていたのだと思う。

後日、寺山修司はその総合病院に入院をしてきて、そのまま帰らぬ人となります。入院して絶命する夜、H医師は病棟の主治医として泊まり込んでいました。その晩、くしくも私は内科の当直医師でした。